コピー(㈱聖測コンサルタント 肥田野英雄)
株式会社聖測コンサルタント
肥田野英雄
世の中、不思議に思えることがままある。いい機会だと思って、ひとつ愚考してみる。私には実体験はないが、日本にも、物がなかった時代があった。食うに困った時代があった。科学的技術なぞありようもない時代があった。けれども、今の状態にまでなった。なぜか?「日本人には大いに役立つ能力が備わっていた」からだそうだ。それがコピーする能力。紡績から始まって、ついには米国を象徴する自動車産業までも凌駕してしまった。並行して、造船やら家電やら、何から何までコピーしまくった。そして国民生活はわずか数十年のうちに“浦島太郎”的変貌を遂げた。物質的に豊かになって大成功。その勢いにのってか、コピーするものがなくなったのか、ついでなのか、自然なのか、文化もコピーの対象になった。精神文化にまで影響を及ぼすくらい、ものに対するのと同様にコピーが進んだ。潜在意識にまで入り込んでしまえば用意万端、機が熟しだということになる。あらゆる概念もコピー、しからば、制度もコピーしても大丈夫。大枠として、消費税の導入はよかったんだろうけれど、食料品にまで掛けちゃいけない。これはミスコピー、機械仕掛けなら動かないか、動いたところで、がたごというに決まっている。医薬分離のぺージはコピーしたが、次のぺージをコピーし忘れた。ホームドクターがいなければ役に立たない、かかりつけの医者とは意味が違う。身近なところでは公共事業費、対GDP比4%台後半のものを2%台に、これまたコピー進行中、余った紙はITコピーへまわすそうだ。それはそれでいいけれど、後でコピーのとり忘れがなければいいが、心配だ。
模倣という言葉を辞書で引いてみたら、下のほうに模倣説というのがのっていた。(社会の結合関係は模倣を基本的要因として成り立つとするタルドの社会学説)難しく考えるまでもなく、あたりまえだけれど、ひとつ大事なことが思いうかぶ。譬えて絵画の模写を考えてみると、完全なコピーでなければ、その価値はないし、模写によって得た技量を応用して、別な絵を画くにしても、閉ざされた空間の中で完結が求められる。コピーもなかなか難しい。